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自殺の自己決定権について|なぜ死を選ぶ?要因と背景から対処法を探る

今回は自殺について書いてみようと思います。

自殺と聞いて「縁起でもない」、「不謹慎だ」なんて言わないでください。私はこの記事で、冷静に、理性的に、自殺という現象を考察してみようと思います。

自殺を否定も肯定もせず、中立的な立場から考えてみようと思います。そうすることで、自殺の本質がおぼろげながら見えてくるかもしれません。

この拙いブログ記事から、読者の方が、自殺について何かを感じていただけたら嬉しく思います。心に刺さったトゲが1~2本、抜けたらいいなと思っています。

私が自殺について思っていたこと

職業柄、担当患者さんの自殺は何度か経験しています。

実はその中で、事前に察知できた自殺は一度もありません。全て突然起こりました。笑顔で別れたその夜に逝ってしまった方もいます。

多くの自殺を経験するうち、「自殺は究極の自己決定であり、防ぐことはできないのではないか」と思うようになりました。

そう考えることで、突然の自殺という衝撃的な出来事に折り合いを付けていたのかもしれません。

20年ほど前、知り合いの精神科医(大学病院の救急救命センターで自殺未遂の患者さんをケアする傍ら、自殺予防の研究も行っていました)に、「自殺を防ぐ方法はあるのでしょうか」と尋ねたことがあります。

答えは、「総合的に判断して、自殺を防ぐことは不可能だ」というものでした。私の感想は、「やっぱり」でした。そして月日は流れました。

◇◇◇

2020年を過ぎたころから続々と認知科学、神経科学、量子脳理論などの新しい知見が発表されるようになりました。

その中でとても興味を持ったのが、「自由意志は存在しないかもしれない」という仮説でした。

自由意志は自己決定の前提です。

ということは自己決定の正当性も揺らぐことになります。そこから、自殺の自己決定に私の中で疑問が生じて、遅ればせながら自殺をきちんと勉強してみようと思いました。

その時の学びが、この記事のベースになっています。学んだ全てはお伝えできませんが、エッセンスだけでも受け取っていただけると幸いです。

自殺の定義

初めに、代表的な自殺の定義について見ておきましょう。

デュルケームの定義

自殺研究のバイブルとも言われている『自殺論』(1897年)の著者、フランスの社会学者エミール・デュルケームは、

「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける」

と定義しています。

世界保健機関(WHO)の定義

世界保健機関では次のように簡潔に定義しています。

「故意に自ら命を断つ行為」
(Suicide is the act of deliberately killing oneself)

◇◇◇

どちらにも共通しているのは、主体は自分であり、かつ死ぬことを意図しているということです。

すなわち自殺とは、「自分が死ぬことをはっきりと認識したうえで、自分で自分の命を断つこと」ということができます。

自殺対策基本法による国民の義務

次に、自殺に対する国民の義務について、自殺対策基本法を確認しておきましょう。

第一条(目的)で、
「…自殺対策を総合的に推進して、自殺の防止を図り…」としたうえで、

第五条(国民の責務)に、
「国民は、生きることの包括的な支援としての自殺対策の重要性に関する理解と関心を深めるよう努めるものとする」とあります。

これは努力義務ですが、私たちは自殺の防止を含む自殺対策に、理解と関心を深めなくてはならないとされています。

死について考える

さて、この記事は自殺について考察するのですが、自殺を考える上で事前にどうしても整理しておかなければならないことがあります。

それは、「死とは何か」ということです。もちろんこんなに難しくて深淵な問いに私が答えられるわけがありません。

ただ、自殺を論じるに当たり最低限整理しておきたい内容を、ちょっぴりですが事前に紹介しておきたいと思います。

死ぬことは悪いことか

人は必ず死にます。

これは「絶対」と断言できる数少ない事柄のひとつです。それでは、そもそも死ぬことは悪いことなのでしょうか。

生物が死ぬのは、後世に遺伝子の多様性をもたらすためです。

みんなが同じような遺伝子を持っていたら、環境の変化に弱くなり、個体の生存確率は低くなります。

そうなることを防ぐために、有性生殖というかたちでオスとメスが遺伝子を交換し、親の死という世代交代を繰り返すことで、個体の生存確率を上げていくのです。

すなわち死とは、遺伝子の多様性によって、さまざまな環境に適応するためのとても重要な手段なのです。

より良い多様な遺伝子を子孫に残すという生物学的な観点からは、「死は悪いことではない」と言えるでしょう。

死なないことは良いことか

死を理解するために、死の対立概念である不老不死から死を考えてみましょう。イェール大学教授(哲学)のシェリー・ケーガン氏は不老不死について、

「死は人生における良いことを剝奪するから悪いのであるなら、最も望ましいのは永遠に生きることなのだろうか?」としつつ、

「不死の人は、(中略)…文字どおり永遠に生きるということだ。そして、永遠にやりたいと思えるようなことを考えつくのは、とても難しい、いや、不可能だと思う」

と述べています。

「永遠の命=永遠の退屈」だとして、「一見素晴らしい不死の夢も、悪夢、けっして逃れられない悪夢に変わる」としています。

※出典:『「死」とは何か』 シェリー・ケーガン著 文響社



また、和光大学教授(心理学)の末木新氏は、不老不死を肯定的に捉えられない理由として、「永遠に続く退屈」と「人生の意味の喪失」を挙げています。

※出典:『「死にたい」と言われたら』 末木新著 ちくまプリマ―新書



確かに「退屈」と「人生の意味の喪失」はとてもつらいものです。それが永遠に続くとしたら、「自殺しちゃいたい!」と思ってしまうかもしれませんね。

現状では不老不死は夢物語の思考実験ですが、「死なないことは良いことだ」とは言い切れないと思います。

死後の世界(永遠の魂)は存在するか

次に検討してみるのは死後の世界、すなわち死後の意識は存在するのかということです。もし、苦しみのない豊かな死後が約束されているのなら、自殺の議論は無意味となります。

だって、自殺とは単なる人生設計となり、いつあの世に行くかという計画に過ぎなくなりますから。80年前後の寿命を全うする必要などありません。

そんなわけで、あの世を約束する宗教には、「自殺したら地獄行き」という戒律があるのでしょう。

さて、死後の世界について哲学、宗教、臨死体験、神経科学、最新の量子力学などを総動員して研究した結果、何が分かったか。

それは、「死後の世界は、あるかもしれないし、ないかもしれない」です。

「なんじゃそりゃ!」ですが、自殺に絡めてみたとき、私は次の考えを提案したいと思います。

自殺して、もし死後の世界がなかったら、意識も消滅し、完全に取り返しのつかない事態に陥ります。したがって万一を考えて自殺はしない。

そして天寿を全うしたときに死後の世界があったとしても、たったの数十年、あの世に行くのが遅れただけです。

永遠に続く死後の魂からすれば、数十年の遅れくらい、どうということはありませんよね

死を経験するのは誰か

社会学的に死を語る際に問題となるのが、「人はいつ死ぬのか(死は点ではなく死の儀式の過程である)」ということと、「死を経験するのは誰か」ということです。前者は自殺とあまり関係がないので、後者についてのみ考察してみます。

「死を経験するのは誰か」

それは残された人たちです。死ぬ本人は意識の消滅とともに一巻の終わりを遂げます(あの世がない限り)。

そして、その人の死を経験するのは間違いなく残された人たちです(あの世があったとしても)。誰かの死をきっかけに悩み苦しみ後悔するのは残された人たちです。

特に自殺によって残された人たちは激烈な苦痛に苛まれます。もし、「死の自己決定権」があるとしても、それをむやみに行使するのは、残された人たちに対して強引だし残酷です。

死は単に個人の問題ではなく、看取る人や残された人と分かち合うもの、死は自己に帰属しているのではなく、「死は共鳴するものである」(小松美彦)と考えることができます。

※出典:『死は共鳴する』 小松美彦著 勁草書房



さて、ここまで来てやっと自殺について考える準備が整いました。これまでの内容を踏まえて、次章以降、本題に入っていきましょう。

自殺は適応的な進化か

自殺を進化論的な観点から説明できないでしょうか。遺伝子を次世代により良く残すために、進化の過程で獲得した有効なメカニズムとして。

近年、行動遺伝学の研究が急速に進んでいるので、自殺についての研究がないか調べてみました。しかし、日本語で読める文献は全くといっていいほどありませんでした。

やっと見つけたのが、『ヒトはなぜ自殺するのか』という本で、その中に短く引用されています。(Denys deCatanzaro, “Human Suicide: A Biological Perspective,” Behavioral and Brain Sciences 3, no.2 (1980):271)

「もしある人の現在や未来の行動がその人の遺伝子の地位を変える可能性がないのなら、自殺を防げる生態学的圧力もない」

「もし子孫を残す可能性がなく、自分自身や家族を適切に助けることができず、遺伝子を共有するほかの人々の繁殖にも寄与できないなら、死んだとしても、その人のもつ遺伝子の頻度に影響がない」

※出典:『ヒトはなぜ自殺するのか』 ジェシー・ベリング著 化学同人



すなわち、自分の遺伝子を残す可能性が低い状態で、かつ自分の存在が同じ遺伝子を共有している親族の繁殖を妨げている「お荷物状態」のとき、皮肉にも、自分が死ぬことで効率よく自分の遺伝子を、親族を通して残すことができるということです。

自殺は絶対悪だとは言い切れない可能性が出てきました。

自殺の自己決定は合理的に行われるか

私たちの自己決定は合理的か?

そもそも人が行動を決める時、それは常に合理的に行われているのでしょうか。

実は、かなり行き当たりばったりであることが最新の認知科学、神経科学、行動経済学などによって明らかになっています。

考えられる選択肢を詳細に分析して最適な意思決定をしているのではなく、ほとんど無意識的に即興的に行動を決定しているようです。

イギリスの認知科学者であるニック・チェイターは次のように述べています。

「ひと言でいえば私たちは、ワンステップごとに感覚入力から意味を絶え間なく創造(創作)して止まない苛烈な即興家なのだ」

「自覚できるのは創り出された意味のみであり、何を言うときも、何を選ぶときも、どう行動するときも、私たちは一度にひとつのことを思考し、つまり心を創り上げているのである」

※出典:『心はこうして創られる』 ニック・チェイター著 講談社選書メチエ



日常的な意思決定ですらこうなのですから、自殺を考えている人が、「苦痛に満ちた生を続けるより、死というかたちで意識を消滅させるほうが絶対に良い」と考えたとしても、それは合理的ではない可能性がとても高くなります。

自殺に至る6つのステップ

次に、アメリカの社会心理学者であるロイ・バウマイスターによる心理的な自殺の生起プロセス、「自殺に至る6つのステップ」を見てみましょう。(Roy F. Baumeister, “Suicide as Escape from Self.” Psychological Review 97,no.1(1990):90-113)

【段階1】 期待値に届かないこと 自殺に至る心の働きの一番目のステップは、「突然の生活水準の落ち込み」です。この落ち込みの衝撃度は、水準の低い人がさらに低くなるよりも、元々水準の高い人が、低い水準へ転落するほうがより大きくなります。

元々生活水準が低い人からするとそれほど悪いようには見えない経験、少なくとも自分の命を終わらせるほどのものではないように見える経験が、本人にとっては生きていられないほどの状況を生み出します。


【段階2】 自己への帰属 自殺へ向かう心の働きの2段階目は、「強く自分を非難する」ことです。段階1で経験した転落によって自己を激しく糾弾します。自分には一切の魅力はなく、欠点だらけのように受け止めます。

また、普通の善良な人々から自分が完全に切り離されているという感覚を持つため、誰かに相談することができなくなります。


【段階3】 自意識の高まり この段階に入ると、自分の欠点への不必要な執着が始まります。自分がいかに卑劣で無用な人間であるかを常に考え続け、自意識に耐えがたい苦痛をもたらします。この極めて不快な自意識から逃れたいという欲求が、自殺の動機の核心です。

この段階に至ると、自分のことだけしか意識できなくなります。共感能力が低下し、自分の死が周りの人たちにどういう影響を与えるのかについて考えられなくなります。


【段階4】 否定的感情 この段階では、「苦痛を終わらせるという魅力」に飲み込まれます。自殺とは、罪悪感や自分への刑罰などではなく、自身を焼き尽くすような否定的感情から逃れることです。

生きるか死ぬかを考えているのではなく、精神の苦痛から逃げたいと切望しているのです。燃えさかる炎と煙から逃れるため、高層ビルから飛び降りる行動に似ています。


【段階5】 認知的解体 認知的解体とは、意識の時間感覚が歪み、単純な要素だけになってしまうことです。現在そのものが苦痛となります。

瞬間、瞬間が意味のないものになり、思考が劇的に具体的になります。この具体性は遺書に現れます。

遺書の中には内省的な言葉が少なくなり、ペットの餌やりや、光熱費の支払い、捨てていないゴミの処分など、日常的な指示が多くなります。

これは、圧倒的な情動を避けるため、脳が無意味な心的作業に没入することによって起こります。

そしてこの作業は、ありがたい一時的な救済になり得ます。自殺の準備をしている間はもう未来について思い悩まなくなるからです。

私たち臨床家が、自殺を全くといっていいほど察知できないのは、このためかもしれません。


【段階6】 抑制解除 この段階になると、「もう死ぬしかない」と考えるようになります。そして、そこに手軽な手段(高いビル、通過電車、ロープ、拳銃など)があれば、抑制解除(死に対する恐怖の低減)が訪れます。

抑制解除をより一層容易にさせるものが、過去の自殺未遂というリハーサルです。自殺を最も的確に予測する指標のひとつが、それ以前の自殺未遂であるという理由はこのためです。

※出典:『ヒトはなぜ自殺するのか』 ジェシー・ベリング著 化学同人



◇◇◇

バウマイスターによる「自殺に至る6つのステップ」を見ると、自殺が理性的に行われていないことが分かります。

精神的苦痛から逃れるために冷静さを失い、思考が混乱し、突発的に実行されているようです。

自殺の対人関係理論

次に、社会的な視点も取り入れた自殺の生起プロセスを見てみましょう。

これはアメリカの精神科医であるトーマス・ジョイナーらが提唱する、「自殺の対人関係理論」です。

この理論は、自殺の生起プロセスについて、現状もっとも信頼性が高いと言われています。

この理論の特徴は、自殺の生起について、「それができるからで、かつそれを望むからである」という視点で考えます。そして、この視点に対応する要素が次の3つです。

1.身についた自殺潜在能力(←自殺できる人) 自己保存本能という、生き物にとって最も根源的で強力な本能をねじ伏せることができる能力のことです。最も強力な習慣化の体験は過去の自傷行為です。

自殺潜在能力は、自殺行動を完全に理解するために不可欠な概念です。


2.負担感の知覚(←自殺を望む人①) 自分の存在が家族、友人、社会にとってお荷物であるという感覚のことです。この感覚は、「家族、友人、社会にとって、私が生きているよりも死んだほうが価値がある」という計算に基づいています。

自殺の危険性がある人たちは、この計算結果が正しいと信じています。


3.所属感の減弱(←自殺を望む人②) 孤独や社会的疎外とほぼ同じ意味です。これは、自分が家族の一員ではなく、仲間の輪や価値のある集団などからも疎外されているという体験のことです。

◇◇◇

そして、「2.負担感の知覚」と、「3.所属感の減弱」が同時に起こると人は死にたいと思うようになり、その人が、「1.自殺潜在能力」を持っていると自殺が起こると考えます。

なるほど説得力がありますね。

ではこの理論において、自殺が合理的な計算の結果行われているかを考えると、「負担感の知覚」と「所属感の減弱」は、思い込みの可能性を排除できません。

※出典:『自殺の対人関係理論』 トーマス・ジョイナー他著 日本評論社


自殺に至る思考は苦痛によって曇っている

最後にもうひとり、前出のイェール大学教授シェリー・ケーガン氏の考えを見てみましょう。彼は自殺の自己決定の合理性について簡潔にこう述べています。

「たしかに、自分は死んだほうがましだと信じることはあるかもしれない。だが、この件に関して自分の考えを信頼するべきだろうか? おそらく、信頼するべきではない! つまるところ、この問題についての自分の思考は、痛みや苦しみ、精神的苦痛によって曇っている可能性が高いからだ!」

※出典:『「死」とは何か』 シェリー・ケーガン著 文響社



◇◇◇

さて、ここまで見てくると、自殺の定義である、「自分が死ぬことをはっきりと認識して」の部分が怪しくなってきます。

多くの自殺が「死ぬため」ではなく、「耐え難い精神的苦痛から逃れたい」というのが動機だったとしたら、それは自殺ではなく、自己完結型の過失致死と言えるのかもしれません。

自殺が許される状況は存在するか

かなり抽象的になりますが、自殺が許される条件を考えてみましょう。

それは、「生きるよりも死んだほうが、絶対にその人にとって善になる場合」でしょう。

すなわち、死ぬことがその人にとって「最大の利益」であると判断される場合には、自殺は正当化されると思います。この状況なら、残される人たちもある程度は納得できるでしょう。

しかし問題は、その人にとっての最大の利益が自殺であると、誰が判断するかです。


注意) 仮に、誰かの自殺が許される状況に該当したとしても、それは理論上の話です。もし、本人の最大の利益のためとはいえ、自殺を手伝ったりすれば、刑法202条の嘱託殺人に該当します。

今、私が自殺について思っていること…[結語]

私は今まで、「自殺は究極の自己決定であり、防ぐことはできないのではないか」と思ってきました。

誰かにとって「良い死」は確かにある。だとすれば、「本人にとって善となる自殺」も確かにあるはずです。

しかし、「絶対に善である」と判断することは極めて難しいと思います。

自殺の可否は、先ず、生きることがその人にとって善であるよりも悪であって、本人の自己決定が理性的、合理的、明晰に行われていることが明らかでなければなりません。

加えて、残される人たち(家族、恋人、友人など)の同意があること、そしてさらに、複数の専門家(誰がふさわしいか今の私には分かりません)が認めた場合に、自殺は正当化される可能性があるのだと思います。

逆に考えると、この手続きを踏んでいない自殺は決して正当化されないでしょう。

まとめ

ホームページのブログにしては長い記事になってしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございます。ここで私なりの結論を述べて終わりにしたいと思います。

拙い結論

「自殺という現象に対して私たちにできることは、自殺を考えている人を一旦は思いとどまらせて、正しい自己決定ができるように、『良い生』についてだけではなく、合理的な『良い死』についてもしっかりと冷静に語り合うことである」


※いま自殺したいと思っている方は、ひとまず信頼できる人と膝を突き合わせて、生きることがあなたにとって本当に悪いことなのか、その死が本当に合理的なことなのか、とことん語り合ってください。お願いします。

こころの健康相談統一ダイヤル
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投稿者プロフィール

松村 英哉
松村 英哉精神保健福祉士/産業カウンセラー/ストレスチェック実施者資格/社会福祉施設施設長資格/教育職員免許
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法人向けには、メンタルヘルス研修やストレスチェック、相談窓口の運営を含む包括的なサポートを行い、オンライン研修も対応。アンガーマネジメントやハラスメント研修も実施し、企業の健康的な職場環境づくりを支援します。